まだ見ぬ景色のために(川澄亜岐子/東京大学大学院生)

研究発表テーマ:“The Legend of Tchi-Niu”における「自立」した女性 Lafcadio Hearn, Some Chinese Ghostsを読む

 昔は流行病をどのように凌いだのか。ふと気になって、ラフカディオ・ハーンの「コレラ流行期に」(『心』、一八九六年)を手にとった。日清戦争後のコレラの流行を受けて書かれたエッセイには、死者が三万人を数えたことや、移送される患者と残された家族の戸惑う様子が記されていた。

 翻って現代も、通路にまで所狭しと並べられた寝台や、力なく投げ出された腕や足の映像が、病の恐ろしさを伝えている。感染予防のために最期の別れも許されず、棺を乗せた車に縋る家族を見れば、たとえ言葉がわからなくても、胸が痛む。

 だが、ハーンが綴るのは病の陰鬱な面ばかりではない。主を失った家族が去っても、町の生活は変わらない。物売りは平生と変わらぬ声で物を売り、托鉢僧は読経しながら道を行く。子供たちでさえ、いつもの顔が見えなくとも仲よく遊んでいるという。

 エッセイの随所に覗くのは、人間への信頼感である。社会の難局は承知しつつ、しかしそれとは別に、人びとは仕事の手を休めない。淡々と日々を暮らすその姿勢には力強ささえ感じられ、科学的根拠とは別の意味で、希望を覚える。

 ハーンの文章を読んでいると、時間や地理上の距離を超えて、思わぬところに行きつくことがある。明治の熊本で出会ったのは、コレラで妻を失い、子育てとの両立を求めて行商を始めた男である。商売道具の籠に幼子を入れ、昼夜を問わず働く背中の先には、現代のシングル・ファーザーが見える。別の話では、漢代の中国で、機織りをして、みずからも家計を支える女性と出会った。彼女は夫を支えつつ、同時に自分の役目を全うする自立した女性だった。

 ハーンを読みながら、私は距離を測る。表層的な情報との距離を、初読時の自分との距離を、測るのである。全力で助走するも、たいてい距離は伸びていない。それでもいつか伸びると信じて、また跳ぶ。予想もしなかった場所に運ばれることを願いながら。

 できるだけ遠くに行くこと。まだ見ぬ景色を見、知らない匂いをかぐこと。そのために、私は今日もスタートラインに向かう。(かわすみ・あきこ=比較文学比較文化)

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