Rhysが真に描こうとしていたもの(近野幹結/慶應義塾大学大学院生)

研究発表テーマ:音楽に取り憑かれたJean Rhys Voyage in the Darkの音楽にみるAnnaの「旅」

 「私は人生を通してポピュラー音楽に取り憑かれていた……私の人生は、その時々に愛していた歌を見出しにして、セクションごとにきちんと分割できるのではないかと思ったりもする」と、Jean Rhysは未出版のエッセイである“Songs My Mother Didn’t Teach Me”に書き残している。イギリス領ドミニカ出身のRhysは、自身の経験を元にしながら、植民地出身者として、また、女性として、イギリスで生き抜く厳しさを赤裸々に描いた作家である。自伝的性格の強いRhysの小説には、「音楽に取り憑かれた」彼女らしく、多くの音楽的描写が登場する。Rhysは音楽を巧みに用いることで、彼女が生きた時代を鮮やかに映し出しているのだ。

 自身の日記を元に執筆されたVoyage in the Dark(1934)は、特に詳細な音楽的描写に富んでいる。西インド諸島出身のヒロインAnnaが、イギリスでコーラスガールから売春婦へと堕ちていく様を描いていて、元々Two Tunesという題がつけられていた。幼い頃から白人であることを嫌い、黒人になりたいと切望してきたAnnaにとって、暖かい故郷マルティニークと冷たいイギリスは、まさに決して交わることのない「二つの旋律」であった。しかし、Rhysは両者が本当に混じり合わないものとして描いたのか。この疑問を紐解くカギは作中に登場する音楽にある。

 自身の内の黒人/白人アイデンティティの間で葛藤するAnnaの人生は、三つの音楽ジャンル―ヨーロッパ音楽、ラグタイム、植民地音楽―によって「分割」することが出来る。そして、これらの音楽はAnnaのアイデンティティ模索の旅と共鳴している。注目すべきは、愛人に捨てられた後、自立を目指すAnnaの周囲で流れるラグタイムである。白人と黒人の異なる二つの音楽文化を融合させたラグタイムは、白人社会のなかで自立しようとするAnnaの姿と重なり合うのだ。結局Annaは挫折してしまうが、西洋/非西洋、白人黒人、という二項対立を乗り越えようとするこの挑戦こそ、本作でRhysが真に描こうとしていたものではないだろうか。今私の眼前には、国境を超えた、否、国境のないイギリス文学が広がっている。(こんの・みゆ=英米文学)

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